上ホロカメットク
遭難の記録
2001年4月22日に上ホロカメットクで起こった遭難事故の追悼文とレポートです。
山行記録目次
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新聞の第一報(北海道新聞4月23日
十勝岳温泉付近で男性が行方不明に
 【上富良野】道警旭川方面本部と富良野署に入った連絡によると、旭川市豊岡一二ノ九、旭川市職員米川元章さん(56)が上川管内上富良野町の十勝岳温泉のホテル駐車場に車を止めたまま、行方がわからなくなり、同本部などは二十三日昼、十勝岳か富良野岳に入山して遭難した可能性があるとみて、ヘリコプターなどで捜索を開始した。
 職場の同僚が、米川さんが月曜になっても出勤してこないため、「登山中に何かあったのではないか」と同本部に届け出た。


捜索時のGPSトラック付きマップデータ(左:平面地図 右:3D地図)

米川氏は、私が以前所属していた東稜会という山岳会(現在は解散)の山仲間で、数年前まで一緒に登山をすることが多かった。
氏は山のベテランで、厳冬期はほとんど活動していなかったが残雪の春山経験は多かった。夏山に関しては、日高方面や沢にも数多く出かけており、体力、技術共に高いスキルの持ち主だった。

捜索状況:
4月23日
昼から行われたヘリコプターによる初期捜索は空振り。凌雲閣に捜索本部設置。
警察官二名が捜索のために入山したが、手がかり無し。
HYML等を通じて広く情報を求めたが、有力な手がかり無し。目撃者無し。入山地点以外はすべて不明。
元東稜会会員が集まり、私とKが捜索隊に加わることになった。

4月24日
凌雲閣より、午前六時から遭対協、警察など約30名が安政火口捜索隊、上ホロ捜索隊(私を含む)、富良野岳捜索隊に分かれて捜索を行った。
この時点ではまだ視界が良かったが(写真1)、強風のためヘリコプターは高度を上げられず凌雲閣〜三段山付近でしか活動できなかった(写真2)。上ホロ捜索隊が米川さんのものと思われるスノーシューの踏み後を発見したが(写真3)、すぐに消えてしまった。
次第に天候が悪化して捜索が困難になってきた(写真4)、上ホロ隊が上富良野岳ピーク付近に達した午後一時三十分に、富良野岳捜索隊が上富良野岳直下、三峰山沢上部1770m地点で米川さんの遺体を発見した(写真5)。直後に無線連絡を受けた上ホロ捜索隊が現地で合流し、共同で遺体の搬出作業を行った(写真6,7)。搬出作業は悪天候の為に困難を極めた(写真8)。温泉沢付近で安政火口捜索隊とも合流して遺体を担架に移し替え凌雲閣へ帰還した。

(写真1,2,3,4)

(写真5,6,7,8)
捜索時の気象状況:
捜索は、視界5〜10m、風速15〜20m、気温-5度という悪条件下で行われた。
トラック図で一部引き返したような軌跡があるのは、視界不良がひどくて、本隊のたった5メートル先で凌雲閣の主人と共にルートの偵察をしていた私が、本隊とはぐれてしまった跡である。また捜索隊のうち一名が遺体搬出中に谷へ転落してしまった。結局捜索隊に二名の負傷者が出た。

遺体の状況:
頭部を上富良野岳の方向へ向けて岩の間で倒れていた。姿勢は左手を枕にし、右手にはストラップで括ったアイゼンを持った状態だった。また、遺体は完全に凍結した状態だった。
損傷は、左額一部陥没、顔面に擦傷、左足首解放骨折。額には自力で止血処置がなされていた。足元の岩にはおびただしい血痕があった。
死因は凍死。死亡推定時刻は22日夕方。

遺留品:
捜索当日には発見できなかったが、後日4月29日にピッケルとテルモスが発見された。
テルモスは遺体発見現場のすぐそば。キャップが外された状態で、中には紅茶が半分程入っていた。
ピッケルは遺体発見現場より数十メートル上方の雪渓の中に落ちていた。ピッケルには、ホイッスルと手首バンドが取り付けられており、その手首バンドからは肩紐が伸びていた。通常は肩ひもをたすきがけにして携帯していたと思われる。
オーバーミトンはボロボロになっており、両手で滑落を停止しようとした痕跡があった。
さらに後日、かなり下方の尾根上でスノーシューが発見された。

推測される4月22日の遭難時の状況:
(付近を登っていた登山者によると当日の気象状況は、朝方晴れ。11時頃よりガス、吹雪模様となる。
気温は、当時稜雲閣で-10度、遭難現場で推定-15度。風速10メートル前後だったと思われる。
視界は前十勝で10メートル程度のホワイトアウト。美瑛岳では上部で20メートルくらい、森林限界では3〜40メートルくらい。
積雪は一時間で5〜6センチに達し、アイスバーンの上に10センチ程度の雪が積もり、非常に滑りやすい状況。雪は表層雪崩が起きやすい状況になっていた)

米川氏は、22日の午前8時に、単独で十勝岳温泉凌雲閣駐車場に車を置き、スノーシューを装着して温泉沢からD尾根沿いに上ホロカメットク山へ出発した。この時点では天候は晴れていた。
途中でスノーシューからアイゼンへ履き替え、11時頃に上ホロカメットクへ到着。この頃から急に天候が悪化してきた。パン等を食べた後(ザックの中に空き袋があった)、下山開始。
そのころには、すっかり吹雪となり視界は10〜20メートルのホワイトアウト状態。
雪面は、アイスバーンの上に10センチ程度の雪が積もり、非常にスリップしやすく、表層が雪崩れやすい状態になった。
12時前後に、上富良野岳直下(滑落想定地点A)もしくは八つ出岩付近(滑落想定地点B)で、足を踏み外すか転倒するかして三峰山沢の一の沢へ滑落。
滑落中にアイゼンが雪面に引っかかってもんどり打ち、右足足首解放骨折。ピッケルが失われ、有効な滑落停止手段が無くなってしまった。
両手で雪面を引っ掻き、顔に擦傷を作りながらさらに滑落。三峰山沢上部1770m、沢が狭まり岩が露出している地点で、岩に激突して停止。
その際に、左額上部に陥没骨折。
滑落停止後、タオルを頭部に巻いて止血し、テルモスからお茶を飲み暖をとった。
骨折した方の足からアイゼンを外して右手にくくりつけ、元のコースへの復帰を試みたが、滑落停止位置からほとんど動くことができずにそのまま意識を失い、ビバーク体制を取れないまま、夕方頃に凍死してしまった。

装備:衣類は、ヤッケの上下を着用しており完全な冬山装備。
12本爪ワンタッチアイゼン、ピッケル、スノーシュウ、ザックの中にはシュラフカバー、テルモス、食料、カメラ、地図、ホイッスル、コンパス


遭難地点の状況:
2001年6月23日に、追悼を兼ねて遭難現場の検証を行った。
滑落地点としては、次の二カ所の可能性が高い。
滑落想定地点A(上富良野岳直下 ):写真9(写真10は滑落開始地点から見下ろした状況、写真11は停止地点から見上げた状況)
水平距離0.172Km、標高差103メートル、平均傾斜30度、最大傾斜36.8度。
滑落想定地点B(八つ出岩付近):写真12(写真13は停止地点から見上げた状況)
水平距離0.141Km、標高差53メートル、平均傾斜20.1度、最大傾斜30度。
遺体発見現場は、少し傾斜が緩やかになって岩が露頭している地点だった。もしここで停止しなかったら、さらに数百メートル滑落していただろうと思われる(写真14)

(写真9,10,11)

(写真12,13,14)

遭難の原因と防止策:
直接原因は、滑落による負傷。
間接原因としては、次のような点が考えられる。遭難防止の為にも整理してみた。
(1)登山計画書の不提出と、入山届け未記入
これについては、以下のような問題が発生し、遭難救助の初期の段階でかなりの混乱が生じた。
 初期捜査が遅れた
 職場に出勤していないことから、23日に遭難が判明。遭難日もはっきりせず捜索が遅れた。
 目的地がわからない
 凌雲閣で米川さんの車が発見されて入山地点がわかったが、目的地がわからなかった。
 登山装備が不明
 
山スキーを嫌うので、おそらくツボ足山行で行ったのだろうということくらい。ビバーク装備の有無もはっきりしなかった。
当初は以上の情報しか得られず、入山地点以外は分からないことだらけで、特に目的地がはっきりしなくて困った。
目的地を推測するために、駐車していた車の窓を壊して内部に手がかりを探したり、自宅に残された故人の山行記録ノートを探して過去の入山記録を調べたりすることになった。
それでも目的地を上ホロ〜富良野岳程度にしか絞り込めなかったので、捜索隊を三隊に分けて捜索範囲を広げることになってしまった。
入山届けは、冬季には凌雲閣のフロントに置いてある。三段山方面に関しては、白銀荘の玄関に置いてある。
今回の遭難では、状況から見て登山届けがなされていても救助は手遅れだっただろうが、捜索には支障をきたした。
登山届けを行えなくても、行き先を知人へ電話しておいたり、自宅へメモを残すだけでもしておきたい。

(2)単独行であったこと
単独行でなければ助かっていた可能性が高い。
このルートは通常は比較的登山者の多いルートであり、普段は単独行でも不安を感じるようなところではないが、当日はたまたまとても入山者が少なかったこと(他には4〜5名程度)が災いした。

(3)携帯電話もしくは無線機の不携帯
滑落停止した時点で、麓へ携帯電話で連絡を取っていたら助かった可能性がある(遭難場所は、携帯の通話圏内だった)。
これについては、本人に対して何度か家族らから携帯電話を持つように強い要請があったが、本人に強い信念があって携帯していなかったとのこと。特に単独行が多い方は是非とも携帯して欲しい。

(4)ツエルトとスコップの不携帯
米川さんは、ツエルト代わりのシュラフカバーを携帯していた。
今回のケースでは、それが使われていなかったことから、かなりの出血により比較的短時間で意識を失ったものと思われるが、ビバークを余儀なくされる事に備えて持ち歩きたい。

(5)天候悪化の予想ミス
滑落の原因は、悪天候による視界不良とスリップしやすい積雪状態のためだと思われる。
天候の急変が最悪の事態を招いてしまった。天気予報を聞いていても、悪化する前に下山できると踏んでいたのかもしれない。

(6)スリップ&転倒時の身体制御
この点については、HYMLの方々から以下のような指摘を頂いた。米川氏が滑落停止訓練を行っていたかどうかは不明である。
・ピッケルをたすきがけにだけしてリストテープに通していなかったことにより、手から放れてしまった可能性がある。安易なタスキ掛けには問題があるもかも知れない。
・転倒した瞬間からの停止に向けた身体制御(ピッケルを胸に構えて、雪面に倒れると同時に反転の動作を起動する)、これを瞬時にできるように体が反応するためには、繰り返しの実践的練習が必要。そのような練習を行っていたのか?
・滑落停止訓練を行っていると、急斜面で転んだら止められないという「自信」がつくと思う。止められるとしたら転んだ瞬間しかないということも体で理解できるだろう。そういうことが体に染み込んでいれば、衣類の摩擦係数が少しでも大きいものを着用することも考えるだろう。歩きながら「今転んだら、どうするか」を常に考えながら歩くようになると思う。転んだ瞬間なら、ピッケルの打ち込みと同時にタブーとされているアイゼンで止めに入っても飛ばされることはないと思う(これは実験段階で終わっているが)。とにかく練習あるのみ。

その他の注意点:初期のヘリによる捜索時に発見できなかったのは、遺体の上に雪が積もっていたのかも知れないが、岩の間に濃い紺色のヤッケを着て倒れていたので、ヤッケの色が原因で発見が難しかったからかもしれない。私はこの一件以来、紺のヤッケを真っ赤なものに買い換えた。

最後に故人のご冥福と、自戒も含めて、もうこのような遭難が起こらないことを心より祈る。  文責:三段山クラブ管理人


「悲しい再会」(今度発刊される、米川氏追悼集への寄稿文です)
 東稜会で米川さんと出会い、一緒に山を登り、満点の星空の下で共に歌い語り合った事は、僕にとって、かけがえのない思い出です。
東稜会が解散した後も、僕が結婚したときには、米川さんはお祝いとしてテント用具一式を山仲間と連名で贈ってくれました。
そのお礼に僕と妻とで米川さん宅を訪ねたのは、1999年7月のことです。
夜半、星空の下で屋久島特産の「三岳」を手渡しながら、僕と米川さんは久しぶりに近況を語り合いました。
「まだ山のぼってる?」「登ってるさー。君は?」「うん・・・ぼちぼちやっていきますよ。また一緒に登りましょうよ。」「そうだねー」
両手を組み、少し寂しげな笑顔を見せていた米川さんとは、そのままご一緒する機会も無く、それっきりになってしまいました。
 そして、再び米川さんと会えたのは、寒風吹きすさぶ上富良野岳直下、三峰山沢上部1770mの地点でした。
立っているのがやっとの厳しい状況下、米川さんは右手にストラップで括ったアイゼンを持ち、斜面を這い登ろうとする姿勢を取ったまま冷たくなっていました。
生きて帰ろうという、執念を感じさせる姿でした。
「あー米川さん・・・こんなところで、なにやっているんだよう!」思わずそんな言葉が口をついて出て、涙がこみ上げました。
あまりも壮絶な再会でした。
 遺体がツエルトにくるまれるとき、僕はどうしても米川さんの顔を見ることができませんでした。
どんな表情だったのか、知るのが恐かったからかもしれません。その時には自制心を崩さないようにすることだけで、精一杯でした。
その後慌ただしい状態が続き、私の胸中も落ち着きませんでしたが、お通夜の時に奥さんに見せていただいた米川さんの表情が、とても安らかだったのを見て、やっと少し落ち着きを取り戻すことができました。
 相変わらず冬山スキーばかりしている僕らに、決して冬山を甘く見るなという教訓を、身をもって示してくれた米川さん。どうか安らかにお眠り下さい。
米川さんから頂いた、数々の登山用品を大事に使っていきながら、常に米川さんの残してくれた教訓を忘れないようにしていきます。
春になり、雪が溶けてから僕と妻は遭難現場へ足を運び焼香してきました。これからも僕らは上ホロへ登るたびに、米川さんへの焼香をかかさず、ご冥福を祈り続けていきます。

元東稜会会員より

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