馬鹿な遊び その4
車いぢり
2002年2月7日(木)
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遊びにも創作の要素が欲しい。そして、刺激的な奴・・・。金が無くて暇を持てあましていたときに、どんな遊びをしてきたか、一挙公開の第四弾(決してお勧めはしません)。
さて、刺激的な遊びといっても、河原で火炎瓶を作って投げて遊ぶとかは、いけません。警察に捕まります。私は、特に大学時代にその傾向が爆発して、仲間と変な遊びばかりしていました。
例えば、”車いぢり”です。


大学時代に車を買った。なんどもこの雑記に登場している3万円で買ったボロボロのシビックである。
たぶんシビックの一代目で、車通に言わせると記念すべきFFの名車らしい。

車検を取らずに廃車にされる運命だったせいか、その車はえらい目に遭っていた。
まず、インパネが分解され、余分な部分が外された。メーター類はダッシュボードの上に転がされて、ガムテープで止めてある。隠されていた配線はわざとムキ出しにされて床をうねっている。そして、なぜか大きな目覚まし時計がダッシュボードに置いてあった。
なぜそんな事をするのか?「カッコイイから」である。または「粋だから」とも言えよう。
ドアは決して手で閉めない。「けっ飛ばして閉める」これがルールである。
もちろん、「洗車は買ってから一度もしていない」むしろ泥だらけが望ましい。
そして、運転も出来る限りラフに。雪道で曲がるときはかならず雪の壁にぶつかりながら曲がるよう心がけた。
族あがりの後輩を乗せた時には、「先輩!うちの大学の中で一番車の運転がラフなのは間違いなく先輩っすよ!」と尊敬のまなざしで私を見つめていた。ふふん。
当時、車を所有している学生は少なかったので、毎日のようにシビックは大活躍した。北海道内も定員以上の人を乗せて、ずいぶんと隅々まで走りまわった。
ドライブに誘うとわざわざ変な格好をして車に乗り込んでくる奴らも居た。カンフースーツを着てヘルメットを被ってたり、ガスマスクを装着し頭にはLEDが明滅するバンドを被っていたり(すみません。芸術系の大学だったもんで)、箱乗りしながらロケット花火を乱射する、そんな連中を乗せながら深夜爆走したり・・・そんな楽しい思い出は尽きない。

しかし、そうこうしているうちに、だんだん(当たり前だが)車がおかしくなってきた。車内にはガムテープで補修された部分が増殖し、もはやガムテープだらけ。これがたいそうベタベタして気持悪い。窓は隙間が空いたまま閉まらなくなり、ルームミラーは何度調整しても斜めに傾ぎ、スイッチ類も反応しないものが増え、カーステレオにカセットテープを入れると、テープがスパゲッティのようににゅるにゅると出てきて・・・しまいにはワイパーがもげた。
まずい!少々「粋」に仕上げすぎたか?「粋」も過ぎると単に廃車同様になってしまうようだ。焦った私は少々車をいたわりはじめた。ドアをけっ飛ばして閉める奴には「こら!」と叱るようになった。調子の悪くなったエンジンも多少は整備するようになった。

しかし、走りは妥協できなかった。アクセルは床までベタ踏みを基本にし、ギアも低めに常に高回転で回し、好んでラフロードへ出かけた。
しかし、オフロード車もよう入らん場所(少なくとも道では無い)を、ジャンプしながら爆走していたらエンジンの調子がおかしくなった。走る事は走るが、なぜか全ての操作がワンテンポ遅れてエンジンに伝わる・・・
修理工場へ持ち込むと、「兄ちゃん、これ、ボルトが折れてエンジンが車体から外れてるよ。ようここまで走ってこれたわ」と言われ、修理するより別の安い車を買うよう勧められた。
こうしてボロボロのシビックとの、厳しくも甘い一年ちょっとの生活は幕を閉じた。

今でも、当時のシビックを知る者たちが集まると、「あのシビック、凄かったよねー」「なんまらおもしろかったなあ」と当時を懐かしむ声が聞かれる。まったくだ。青春の思い出を作ってくれたシビックに乾杯・・
しかし、次の言葉を聞いて吹き出した「あのシビックって、最後は河原で燃やされたんだよねー」「うんうん、らしい最後だよねー」
なにー?いつの間にそんな話になっているのだ?それだけは訂正しておきたい。さすがに私でもそんな非常識な事はしない。それはウソである。
でも、あのシビックの熱い走りを覚えている者達は、「いや、最後には絶対燃やした筈だ!」「当時評判になった有名な話だ!」と言い張ってきかないのである。


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